11月の園便り

来年度からの縦割り保育と水曜日の給食の影響でしょうか、先日来の説明会やオープンスクールなどでは、いろいろなご質問の中で多くの方が、縦割り保育の高い期待度を示してくださっているように感じました。また週一ではありますが給食が始まるというのも、週一だからこそ何かワクワクするものがあります。年長さんが年中年少の弟妹たちの食器に注(つ)ぐ光景が、ちょうどモンテッソーリのお仕事さながらに感じるからでしょうか。また年中さんや年少さんたちには、年長の姿は憧れとして映ることでしょう。自分も年長になったらあれができるという目標を持ち続けながら…。 ご存じのように子どもの成長とはすさまじいものがあります。周りのすべてを吸収して自分のものとするわけですが、実は良いことは違います。悪いことこそ周りからの影響は大であるものの、良いことは持って生まれたものが子どもの中で眠っているだけなのです。この「傾向性」はどの子にも程度の差こそあれ、もともとあるものです。それが環境などによって顕在化してくるのです。だから環境を吸収してと見えるのも無理はありませんが、もともとあるものが開花しただけのこと。もともとあるということをいかに信じるか、これはもう宗教の域かもしれません。

11月の宗教だより「ファリサイ派と徴税人」(ルカ18・9~14)

 の箇所は、失望しないで絶えず祈り続けることの意義を説いた後に出てくるたとえ話で、イエスが祈りの姿勢についても教えています。イエスの話に出てくるファリサイ派という言葉の多くは、その人たちに向けられたというよりも「そんなことをしていたら、ファリサイ派の人々と同じではないか」といった、弟子たちに向けられた自戒の言葉と取れます。罪びととか異邦人という言葉も、特にそうですが、ここでも、弟子たちに向けられた言葉であると思われます。こうしてみると、ファリサイックな心の動きは、人は誰でも陥りやすいことなのだろうなと思われます。だから最後にはおそらく「だからあなた方も気をつけなさい」という言葉が隠されているのだと思います。だから私たちも気を付けなければいけないということです。どういうことか、見ていきたいと思います ▼ くまでたとえ話ですので大げさな表現をしているところがあるかと思いますが、ファリサイ派の人と徴税人の二人の祈り方についてです。ファリサイ派の人は胸を張って「他の人のような罪深い人間でないことを感謝します」と言った後、自分のしている良いこと(断食や献金を多くしていること)を論(あげつら)っています。近くにいた徴税人が目に入ったのでしょう、あろうことか「この徴税人のようでもない」ことまで神に感謝しているのです。一方徴税人は、周りからも嫌われ自分でも身に覚えがあるのかもしれません、顔も上げず「罪びとの私を憐れんでください」とだけ祈ります。

ずファリサイ派の祈りの方を見てみましょう。ファリサイ派と言えば、イエスがたびたび「偽善者」といって公然と非難をしていた人々のことで、独善的で自分たちは立派で神の目にかなっていると思っていました。この人たちの祈りは自慢たらたらで、我こそは救われる、他の人々は救われない罪びとだというのが前提です。しかもこれを心の中で祈っているようですので、周りの人に聞こえよがしに言ったわけでもなく、本心なのでしょう。比較して徴税人の方は、自分は神に顔向けもできない罪びとだと、謙虚に認めています。ソクラテスの「無知の知」という言葉がありますが、自分が罪びとだと知っているということです。神は徴税人の方を義としたと書いてあります ▼も、罪とはいったい何なのでしょう?皆さんは自分はさして罪も犯してはなく一応善良な市民…と思ってらっしゃるでしょう。私もそうです。人殺しも盗みもしていない、駐車違反ぐらいだと思っています(笑)。しかしそれは人の世の罪です。神の前に罪とはどんなものを言うのでしょうか?人は原罪の中に生まれたので罪に傾く傾向があるといいます。しかしその傾きとは、人を殺してみたくなるなんて大そうな傾きのことではありません。ちょっとした意地悪な気持ち、優越感など。そうです、ファリサイ派の祈りは弟子たち中にもあり、実は私たちの中にも常にあるものなのです。罪が何なのかを知ることは自分も罪びとだと悟ることになります。そうすると私も少しは謙虚になれるのでしょうか。誰か教えてください。