園長室より

2月の園だより

 暖冬で今年は雪が降らないのではないかと言われる岡山も、朝玄関に立つ時の寒さは、歳とともに身に染みます。コロナウィルスも日本に上陸したと聞きますが、皆さんはお元気でいらっしゃいますか?幼稚園の方は話し合いを重ねながら、来年度の準備が着々と進んでいます。

  昨年の夏のカトリック幼稚園全国大会のテーマの一つに、私の好きな言葉「神によって建てられるのでなければ、家を建てる人の骨折りはむなしい」という詩篇があったのをふっと思い出しました。今の労苦が自分の一人の中でのことだと思ったら、嫌になっちゃって、どうしてこんな苦労をしなきゃあいけないの?という思いになるかもしれませんが、それらはすべて神のためだと思えば、耐えられる、もしくは喜んで受けるという心境に変えてくれる魔法のような言葉なのです。家を建てているのは自分だけではなく神が共に働いていると感じる時、勇気百倍になり笑顔で過ごせます。神さまに捧げるつもりで、日々を頑張らなくてはと思いました。

2月の宗教だより《よろこびの訪れ》

❇ わたしもあなたに罪を認めない(ヨハネ8.1~11)

 音書を読んでいると、イエスとファリサイ派を中心とした人々との問 答がたくさん出てきますが、その多くは「どうして?」とニュートラルな 質問ではなく、「どうしてそんなことをするのか!」といった具合に、ファリサイ派がイエスを非難しようとする質問が多いのですが、それに対してイエスは、逆に彼ら自身に答えを出させるような質問を切り返していきます。隣人のたとえ話や税金問答などはその典型で、政治的だともいえる見事なやり取りです。今日のこの場面も、やはりファリサイ派たちが姦通の現場で捕まったマグダラのマリアと思しき女を、わざわざイエスの前に連れてきて、意地悪く質問します。「石打ちの刑にすることを、あなたはどう思うか?」

 打ちの刑に賛成しないと言ったら律法に従わないと宣言したことになり、宗教的な大きな罪です。しかし賛成と言ったら、多くの支持者である罪びと達の失望を招くことになります。そこで彼は、俗っぽい言葉でいえば「自分は罪なんてない、完璧だと思う人から石を投げればいいでしょう?」と切り返すのです。結果は…。一人去り二人去って、最後には彼女だけが残ります。そしてイエスは「わたしもあなたに罪を定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言って彼女を行かせます。わたしたちが司祭から罪の許しをしてもらい、告解場を出る時と同じ言葉です。

 ァリサイ派の人たちは、律法という文字面だけを重んじて本質に触れようとしない人たちとしてイエスから非難を受けますが、ここでも自分は姦通の罪犯していないということで、自分はまるで聖人君子だと言わんばかりに振舞うのです。イエスにこう言われて、さすがにしゃあしゃあと石を投げることは出来ませんでした。「よろこびの訪れ」で何度も取り上げていますが、わたしたちはともすると自分のことは棚に上げて人の失敗や悪癖を言い募っていることはないでしょうか?気が付かないでそうしているとき、わたしたちは「ファリサイック」です。イエスの最も嫌う、「偽善者」になってしまいます。とは言え、人は原罪に支配されていますからついそうなりがちなのです。何も恥じることはありません。この場面で「年長者から始まって、一人また一人と立ち去って」いくように、わたしたちもイエスのこの言葉を聞いて、石をもって振り上げた手を下せる勇気を、去っていく謙虚さを持ち合わせることが出来れば、「ソレマル」なのです。もしその行為が「ファリサイック」な行為だと気が付かなければ、イエスを十字架に架けるべく画策した張本人、ファリサイ派と同じになってしまいます。の話を聞いたからには、わたしたちは他人(ひと)のことを言い募るのをやめにして、自分を振り返らなければなりません。福音書の中のファリサイ派たちとの押し問答のように、キリストはいつも私たちに考えさせるチャンスを与えてくれます。彼らはそれでもイエスを十字架に架けました。わたしたちはどうしますか?